HISTORY
1948年に創業して以来、製品の元となる材
料から成形、加工、組立、実験、設計まで
幅広い技術開発を経て
現在の日本プラストがあります。
これからも技術開発に精進し、
新しい日本プラストを創造していきます。
1948年に創業して以来、製品の元となる材
料から成形、加工、組立、実験、設計まで
幅広い技術開発を経て
現在の日本プラストがあります。
これからも技術開発に精進し、
新しい日本プラストを創造していきます。
日本プラスト株式会社の創始者である廣瀬 信男と岡田 羽との出会いは太平洋戦争末期に遡る。戦争が終結し軍需から民需へと製品の転換が図られるようになると、ふたりは新時代の素材、プラスチックに夢を託し独立を決意。1948年(昭和23年)4月、富士郡鷹岡町の桜林堂パン屋の広さ3坪の裏屋を借り、日本プラスト株式会社の前身となる「日本プラスト工芸」としてささやかにプラスチックづくりを開始した。
1948年(昭和23年)静岡県富士市に日本プラスト工芸を設立。
戦後のプラスチック製品の急速な浸透、自動車生産の増加を背景に自動車部品を中心にプラスチック製品の生産をスタートした。
自動車産業はモータリゼーションの幕開けを迎え、国内需要の拡大と貿易自由化に備え各社共積極的な設備投資と企業体質の強化を図っていった。当社においても、熾烈な国内競争に打ち勝つため、最新鋭設備の導入や、近代化工場の設立を行い設備を増強すると共に、品質向上、生産工程合理化を図り、新製品の開発及び技術向上、営業力の強化を志向し企業体質の強化を図っていった。
高度経済成長によるマイカーブームが幕を開け部品の樹脂化が加速。当社の樹脂部品受注量も大幅に増加したため新工場設立による生産設備の拡大と株式増資によって体制強化を図っていった。また、1973年のオイルショックにより、自動車業界はもとより日本全体が激震、プラスチック業界も未曾有の危機に陥った時代でもあった。
国内自動車産業は世界的不況、対米輸出自主規制等により輸出が停滞し、内需が伸び悩み、国内自動車メーカーの海外進出が加速。国内空洞化の中で当社を取り巻く情勢も厳しくなり生き残りを賭け、企業体質の改革を行うと共に海外現地生産化を敢行した。
バブル経済の中、付加価値商品の採用が拡大。快適性や機能性に加えて乗員の安全性が求められ、エアバッグなどの安全システムの開発が始まった。当社もこれに呼応する形でエアバッグの生産を開始し、国内外の生産拠点を拡充。また設計、開発、実験、生産技術部門を集結。実験設備を増強すると共に開発効率化を図っていった。
自動車メーカーの世界規模での再編成が進み、国際競争が激化。コスト低減要求や開発期間の短縮、アウトソーシング化に加え、革新技術の提案力強化が求められ海外生産拠点の拡充、国内外の開発体制の強化を行うと共に、安全/樹脂の融合商品化(モジュール化)を指向していった。
原油・原材料価格の高騰、米国サブプライムローン問題等、経済環境は冷え込み、自動車産業はこれまで以上に競争が激化。当社としては熾烈な競争に打ち勝つ為、より一層のグローバル化への対応、品質・価格競争力の向上を図り環境との調和、安全性・利便性の向上等、お客様に喜ばれる魅力ある商品作りを目指し「人・クルマ・地球」の未来を創造していた。
日本プラストグループが目指してきたものは、全てのお客様に満足いただける製品・サービスの提供。この理念をベースにめまぐるしく変わる市場からのニーズにも柔軟かつ迅速に適応し、安全部品事業では、CASE等次世代自動車に対応した高性能要求と新興国需要獲得のための低価格要求の2極化に対応した商品開発により販売拡大を図る。樹脂部品事業では、電動化・自動化の採用拡大に伴いキャビンの快適性向上のニーズの高まりに対し、視覚、聴覚、嗅覚、触覚を当社独自技術で数値化し、保有するあらゆる技術により具現化していく。安全部品事業と樹脂部品事業の融合により次世代自動車にマッチした安全で快適な居住空間を提供し続けていく。